私が感銘を受けた、ぼくを探しにの作者であるシェル・シルヴァスタイン作(村上春樹訳)の本であったため、わくわくしながら読み始めたが、読み終わったあとはなんだかモヤモヤしてしまった。
その原因は、少年道徳心無さすぎやしないかい?というところだと思う。
一緒に遊んだりして、あれだけの時を一緒に過ごしたにも関わらず、自分が大人になり、自分の都合ばかりを木におしつけて、木に対する思いやりが全くなかったからだ。
また、木は自分の身を削って少年に価値を提供しているのに対して、少年は受け取るだけ受け取ってなんのお返しもせず、感謝すらしていない様子に正直腹が立った。
しかし、ふと我に返ってみると、自身も今までの人生で同じよう様なことをしていたのでは?という考えに至った。
子どもの頃おもちゃを買ってもらいうきうきで遊びに遊んで、たくさんの楽しい時間をおもちゃから貰った。だけれど、自分の興味関心が変わったり、勉強が始まって忙しくなったといった理由からそのおもちゃを使う頻度は減った。そして、思いついた時に手に取り遊ぶがすぐに飽き、そして乱雑におもちゃ箱に片付け、だんだんホコリをかぶっていった。
だけれど、おもちゃはずっとそこにあって、私の気が向いた時にはおもちゃとして楽しい時間を提供してくれる。おもちゃを綺麗にしてあげようといった、何かしてあげようといった気持ちになったことは無かった。
でも、おもちゃは木と同様に見返りなんか求めておらず、単に役に立てたことが嬉しくて幸せだったのかもしれない。
しかし、なんだかモヤモヤしてしまう。もう少し身の回りのものたちに感謝する心を持ちたいと思わさせれた。
《訳者のあとがきより》
訳者の村上春樹の言葉だが、
『人の心を本当に強く打つのは多くの場合、言葉ではうまく説明できない物事なのです。だからこそ、この本は世界中で多くの人々の手に取られ、何度も何度も読み返されてきたのでしょう。一度ですんなりと理解し、納得する必要はありません。~とにかく何度も読み返してみて下さい。』
・おおきな木の原題は『The Giving Tree』で
訳すと「与える木」。
・このりんごの木は最初から最後まで、一人の
少年に何かを与え続ける。
・木は原文では「彼女」と書かれており、女性
である。(そのため言葉遣いは女性のもの)
・多くの人はこの気を母性の象徴としてとるで
しょう。